「中間」の消失—–写真の役割

「中間」の消失—–写真の役割

「中間」が消えていく

去年の5月はもっと涼しかったような気がします。

だんだん日本には「中間」というものがなくなっていき、右か左か上か下か黒か白か暑いか寒いかという二極化が進行しているのでしょう。

以前よく聞かれたファジー理論は日本の十八番だったようですが、現在のデジタルな0と1は曖昧さを許容しないシステムを作り出しているようです。

フィルムカメラの滑らかなグラデーション、アナログレコードの豊かな音の連なりは、今日では非実用の贅沢品となってしまいました。

ついに季節まで0と1に二分化し、冬か酷暑か、「中間」の消失は益々強まっていくようです。

5月なのに真夏日になってしまっては、外での撮影は厳しいなあと感じます。

言葉VS写真

曖昧さ(ファジー)ということに関していえば、言葉と写真、どちらが適しているのでしょうか?

言葉は「Yes」か「No」かのように、二者択一を迫る傾向があります。Yesでもあり、Noでもあるという両者の「中間」を表す端的な言葉を探すことは難しいです。

「好き」と「嫌い」の中間を一語で言うとどういう言葉になるのでしょうか?

「まあまあ」という言葉もありますが、ビジネスなどの公的な場では使うことが憚られます。なので、「好きでも嫌いでもありません」とか、「あまり好きではありませんが、かといって嫌いというわけでもありません」など、文章にして説明する必要があります。

その点、写真は曖昧さを細部にわたって一目で写し出すのが得意かもしれません。

写真に写された顔の表情や(男女の)二人の間の距離などから、「好き」とか「嫌い」とか一語に集約されない(できない)曖昧さを含んだ多様な意味合いを言葉よりも自由に提示することができるでしょう。

マイクロストックの写真ではそうした曖昧さや意味の多義性は好まれない(売れない)と思いますが、作家性を重視している(GettyImagesやStocksyなど)一部のプレミアムストックでは、モノラルな意味よりも多義性や重層性を含んだ解釈の幅のある写真が多く見られるようです。どちらの写真が良いか悪いかという問題ではなく、写真は分かりやすい一義的な意味から、曖昧かつ重層的な意味まで、非常に幅広い意味合いを提示できる媒体であり、その点で二者択一を迫る言葉(ロゴス)よりも自由度が高いといえるでしょう。

ただ、重層的で解釈の自由度が高い写真が売れるためには、それを利用するデザイナーの力量や、その写真を提示される側の一般の人たち(社会)の感性の豊かさや知的成熟度などが必要でしょう。

残念ながら、デジタル化した0と1から作り出される社会では、善悪二元論的な分かりやすいロゴスがはびこり、曖昧なもの(=「中間」的で複数の意味を持つもの)は排除されてしまいます。

逆に言えば、そのような二元論的傾向の強まりへの対抗手段として、曖昧さや多様性を容易に写しだすことができる写真(および写真家)の役割はより大きくなっていくことが期待されます。

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