蜷川実花といえば、極彩色。ピンク、赤、青、紫が画面いっぱいに炸裂し、被写体を蜷川ワールドへ連れ込む圧倒的な演出力。
しかし『東京 TOKYO』は、そのイメージを根底から裏切る。これは、蜷川実花が「色の魔術師」であることを一度やめ、素手で東京と向き合った作品だ。
従来の彼女の作品は、色が主役だった。飽和したピンクや赤、映画のような照明、花や女性を包み込む幻想的な世界、祝祭のような非日常性が蜷川ワールドを構成し、被写体は色の中に溶けこみ、世界は蜷川の手によって再構築されていた。
しかし『東京 TOKYO』では彼女の最大の武器である極彩色を捨て、(PARCO Journalの記事で語られているように)「写ルンです」(使い捨てのフィルムカメラ)を選んだ。
「写ルンですは不自由で、技術が通用しない」「自分のあらゆる得意技を封印して、シャッターを切ることだけで勝負」したかったとその記事の中で述べている〔参照〕。
写ルンですは、露出もピントも画角も 思い通りにならない。もちろん、色をコントロールすることも難しくなる。その結果、写真には 作り込まれた極彩色ではなく、 都市の光そのものが生む自然な色が現れることになる。
首都高の光跡、東京タワーの赤、スカイツリーの青、雪の日の桜の淡い色どれも、蜷川が作った色ではなく、東京が持っている色だ。
『東京 TOKYO』を語るうえで欠かせないのが、 蜷川実花が「夢」から降りて「現実」に立ったという点ではないだろうか。
従来の蜷川作品は、 色彩、照明、スタイリング、演出によって 現実を蜷川ワールドへと変換する装置だった。花は現実以上に咲き誇り、女性は映画のヒロインのように輝き、色は被写体を包み込み、世界を塗り替える。そこには常に「虚構」の美しさがあった。
しかし『東京 TOKYO』では、その虚構がほとんど姿を消す。 代わりに現れるのは、 東京という都市が本来持っている光と影、自然と人工物の輝き、そして人間の生々しさだ。
この写真集の中に写っている、首都高のトンネルの中のオレンジ色の光や、雨粒に濡れた窓ガラスから見る夜の街の青白さ、雪の日の桜の花びらが道端に落ちて靴で踏まれたモノトーンの足跡などは、すべて演出された色ではなく都市の中で自然に生まれた色だ。蜷川はそれらをありのままに拾い上げていく。
人物に関しても同様だ。従来のポートレートの中では、被写体が「蜷川ワールド」の住人として鮮やかに描かれていた。しかし『東京 TOKYO』に出てくる79人の(芸能人や芸術家などの)人々は、東京という現実の中に置かれているリアルな人々として登場している。無理に笑わせず、ポーズを作らせず、スタジオではなく街中で、その瞬間の空気をそのまま受け取りながら自然な表情で撮影されている。スタイリングの華やかさは抑えられ、色の演出も最小限で、セレブリティーや有名人であってもその人が東京で生きているという事実だけが前に出てくるような撮り方だ。
色を作らず、光を操作せず、人物を演出せず、都市の偶然性を受け入れる。その結果、東京という都市のリアルな姿が、蜷川の視点を通して、見事に立ち現れてくる。それが『東京 TOKYO』だ。