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― 静けさの中で、世界と自分の境界がゆらぐ―

市橋織江が旅先の「ある街」に滞在した5日間を柔らかいトーンで写した写真集『TOWN』。この本は、都市を描いた作品でありながら、都市そのものを語ろうとはしない。都市名は伏せられ、象徴的な建物も登場しない。

本書の中で市橋は、見る者を導びくことはせず、そっと手を離して「街」の中に置き去りにする。そこで感じるのは、滲んだ柔らかい光に照らされた「街」の中で、自分の輪郭が曖昧になる感覚だ。自己は街に溶けだすように拡張され解放される。

『TOWN』は、 現実の街の記録というより、誰もが心の中に持っている「架空の街」の記録なのかもしれない

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都市を語らないことで都市を語る

『TOWN』を開くと、まず驚かされるのは「都市の不在」である。都市をテーマにした写真集でありながら、そこには都市を特定する情報がほとんど写っていない。観光地、ランドマーク、看板、地名といった、都市を説明するための要素は排除されている。

市橋織江は、この作品でリアルな都市を描くことを意図的に避けている。彼女が描こうとしているのは、現実の都市そのものよりも、都市に触れたときに立ち上がる「集合的な記憶」のようなものだ。壁の質感、窓に落ちる光、道の端に置かれた瓶、遠くを歩く人影。それらはいずれも特定の都市を象徴するものとはいえず、断片的な描写でしかない。しかし、その断片の積み重ねが、都市の空気感や雰囲気に触れた時に誰もが自分の中に持っている「記憶」を静かに立ち上がらせる。

都市名を伏せながら都市を写すという選択は、本書を見る者に大きな余白を与える。ページをめくるたびに、読者は自分の記憶や経験を呼び起こし、写真の中に自分の知っている街を重ね合わせる。その結果、写真集は単なる旅の記録ではなく、読者それぞれの内側で生成される個人的な物語へと変わる。

都市を語らないことで、都市はより深く語られる。この逆説こそが、『TOWN』の美学の中心にある。

『TOWN』における光と距離感

『TOWN』で描かれる多くの光はどれも優しく滲み、街の輪郭はゆっくりと曖昧になっていく。優しく滲む光と輪郭の曖昧さは、街自体のリアルさを希薄にする。前回レビューした蜷川実花の『東京 TOKYO』では、光そのものがリアルな「東京」を写し出していたが、『TOWN』の優しい光は街のリアルさを暈かして「幻想」の一歩手前に読者を誘う光だ。

人との距離感も特徴的だ。写真に写る人々は、顔も表情もはっきりせず、感情は読み取れず、後ろ姿や横顔が多く、視線は交わらない。以前レビューしたソール・ライターは、適度な距離を保ちながら人々を見守るようにニューヨークの街を撮っていたが、『TOWN』の市橋は、街の人々をより遠くから写しリアルな街に触れたり、街の住民に近寄ることをどこか躊躇するような印象がある。それは、「自分はこの街の住人ではない」という感覚なのかもしれない。

しかしこの「街の住民ではない」といういわば「異邦人」的な感覚は、『TOWN』の中で、疎外感や不安を呼び起こすことはない。むしろ、ある種の「解放」として描かれている。日常の中では、人は常に何かの役割を背負っている。家族の中での役割、仕事上の役割、住人としての役割。しかし旅先では、その役割が一度ゼロになる。街は動いているのに、自分はその街の物語の登場人物ではないと感じる瞬間、自分の輪郭が少し曖昧になるこれは否定的な感覚ではなく、むしろ「解放」に近い。

『TOWN』の光は、現実の輪郭を少し溶かすように滲んでいる。それは、自分の輪郭が少し溶けだす感覚を視覚化しているようにみえる。

旅先でふと立ち止まったとき、「自分は何者なのか」という問いが一瞬宙に漂い、自分の輪郭が少し揺れる。しかし、その揺れは不安ではなく、むしろ静かな自由。市橋はその自由の揺れを肯定している。

自分の輪郭が揺らぐとき、人は世界に少し溶け込む。光の中に溶ける。街の空気に溶ける。他者の気配に溶ける。これは自己が消えるのではなく、自己が拡張する瞬間だ市橋はその拡張を、滲んでいく光と静かな距離感で描いている。

『TOWN』は、「自分が世界に少し溶ける瞬間」を記録しているのかもしれない。

 

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